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2019年07月09日

世界の伝記:西郷隆盛・勝海舟

顔 こんにちは!

今月は、13日~21日まで 宮崎空港での ひむかの国の窯元まつり に参加します。

只今、準備中です。 昨日、窯を焚きました!



それでは、世界の伝記 続きです。


<西郷隆盛>



S(西郷)は、1826年鹿児島に生まれる。そして、1877年、西南戦争で51歳で戦死(自決)します。

Sの印象は、なんというか、得体のしれない薄気味悪さがあります。威圧的で、物事を敵か味方かで考えるタイプ。

薩摩・島津のどろどろとした内部争いがベースにあり、途中、海に身投げをして死にかけたり、島流しの刑を受けたり、表舞台にいるかと思えば、姿を消したり、生きているのか、死んでいるのか。

今でも、西郷の本当の姿は!? と謎がつきないのだから、当時は、それこそ、不気味そのものだったのではないだろうか。

何を考えているのか、わからないし、何をしでかすかわからない。

島流しにして、柵に閉じ込められるほどの危険人物と考えられる。

やってることも、戦が多い。

大政奉還直前に、江戸城総攻撃を企てたり、明治になって戊辰戦争、
それから(征韓)韓国に攻め入ろうとしたり、最後は、官軍相手に西南戦争を企てる。結果、両軍合わせて1万2千人近くが戦死している。

江戸城総攻撃とは、江戸の町中に火を放ち、混乱状態のなか、江戸城に一斉に攻め入るという作戦だったらしい。

周辺でも、切腹や辻斬り、原因不明の死やらが多く、どこか血なまぐさい。


宮崎との関係では、<西郷札>が出てくる。

西南戦争で苦戦し逃れ逃れた西郷軍が、一時的に延岡を占拠し、それまでの通貨を<西郷札>に変えてしまった。 

それで得た資金で軍備を立て直し、再び鹿児島に攻め込む。

西郷軍が敗戦し、紙切れになった西郷札は、延岡・宮崎の経済に多大な被害をもたらしたらしい。


幕末・明治の歴史が、どこか謎めいて、今でも多くの人の興味をそそるのは、Sの捉えどころのない不気味さが大きく関係しているように思えます。


<勝海舟>



K(海舟)は、1823年 江戸生まれ。 S(西郷)の三歳年上。 1899年に 77歳で脳充血により急死しています。

ペリー来航が31歳の時、咸臨丸の船将としてアメリカに渡ったのが、桜田門外事件が起きた1860年で、38歳。

大政奉還が46歳。75歳の時には、田中正造と共に、鉱毒反対運動に力を注いでいる。


Kは、人間力がある人物だと思う。面白い逸話が多く、非常に魅力的だ。

江戸っ子で、べらんめえ口調、本書曰く、「小柄ながらに、ピリッと効いた山椒のよう」こういう人、なんとなくいます。

イメージでは、私の二回りほど年上、団塊世代のおっさんで、組織や会社で、上に平気で物を言い、煙たがれるタイプ^^

幼少期に、御殿に使えるようになったエピソードも面白いし、ペリー来航の年に、幕府に意見書を出すのも、腹が座っている。

咸臨丸の出港時には、大腸カタルで高熱を出していたが、無理やり乗り込み、航海中は、ほとんど部屋に籠っていた。という話も面白い。

咸臨丸には、Y(福沢諭吉)も乗っていて、二人の思惑の違いもこれまた面白い^^

R(龍馬)との出会いも面白く、開国派のKを斬る覚悟で尋ねたRが、逆にKの考えに飲み込まれてします。

S(西郷)とも、江戸城明け渡しの会談のまえに、何回かあっており、お互いの性格は承知していた。 

K&Sだからこそ、無血開城、大政奉還できたのだと、なんとはなく理解はできた。

それにしても、2回に及んだこのふたりの会談。

一方は、べらんめえの江戸弁、方や、薩摩訛りで、無口。

果たして、二人は言葉を理解し合えたのだろうか?




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Posted by 陶STUDIO・サキムラ久 at 22:52│Comments(0)日記BOOK
 
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